宮原 秀子さん

以前はどういう暮らしをしていましたか?

以前はアメリカのカリフォルニア州にあるシリコンバレーで暮らしていました。アメリカの家には裏庭があり、山梨の実家の庭を真似して花や甘い黒ぶどう、富有柿、温州みかんなどを育てて楽しんでいました。実家は今でもぶどう園やワイナリーを経営していて、私は本当はぶどう園を継ぎたかったんです。高校生の時に「百姓になる!」と両親に宣言したのですが、「女なんかに出来るもんか!お前は嫁に行け!」と言われ、結局両親に気に入られていた今の夫と結婚しました。

仕事はずっとシリコンバレーでサイバーセキュリティーの営業をしていました。当時、この業界にいるのはほとんどが男性で女性は私ぐらいでした。また、今さかんに「テレワーク」という言葉を耳にしますが、私は25年前から在宅勤務をしていました。アメリカでは営業職はオフィスや自分の机がなく、営業マンは外に出ていくのが当たり前と言われていました。毎日忙しかったのですが、私にとっては趣味がビジネスという感じだったので毎日が充実していてとても楽しかったです。

ところが、ある日突然片耳が聞こえなくなりました。病院に行くと、ストレスから来る難聴と診断されました。「茹でられた水の中のカエルということ。いい気持ちだなぁと泳いでいたら、水がだんだん熱くなってきて、気がつかないうちに茹でられていたということね。もし、あなたが男性だったら、今頃ぽっくり死んでいましたよ。」と係りつけの医者に言われてしまいました。日々の忙しさにストレスもあったのかもしれませんが、自分自身ではストレスと感じずに働いていたのかもしれません。

どういう経緯でアメリカに住み始めたのですか?

私の趣味は旅で、結婚するまでに28ヶ国を訪れました。子供の頃から、両親が「かわいい子には旅をさせろ」と海外へ行くのを後押ししてくれていたんです。当時は「女の子を外国に出すなんて」と周りからは言われていたみたいですが。

初めて海外に行ったのは中学生の時で、スウェーデンに行きました。高校3年生の時にはオーストラリアのシドニーに1年交換留学へ行き、すごくオーストラリアを気に入って、そのまま残ってシドニー大学に2年通いました。でも、さすがに「いい加減に帰ってこい」と父親に言われ、日本に戻って来たんです。帰国後、山梨の大学に入ったのですが、日本の大学が私にはつまらなく感じてしまったんですよね。「アメリカに行った方がもっと勉強出来るかな?」と思い、カリフォルニア大学に入学し、当時、流行りだしたコンピュータープログラミングを専攻しました。その後、さらにセキュリティーの暗号などの勉強をして、今の仕事に就きました。

休日はどんな風に過ごしていましたか。

子供を産んでからも休暇はいつも家族そろって海外旅行をしていましたが、日本担当で日本語を話せるのは私一人だったので、旅行先でも常に仕事をする羽目になりました。ある夏休みに家族みんなでメキシコに行ったのですが、ホテルに着いた途端にインターネットが繋がっていないことがわかり、私は家族を残して一人でアメリカに戻った経験も有ります。インターネットが繋がらないと家族と一緒にバケーションを過ごすこともできませんでした。

▶︎アメリカの自宅にて家族と暮らしていた時の宮原さん 

なぜ地方移住をしようと思ったのですか?

43年間ずっとアメリカで暮らしてきて、定年退職したら日本に戻りたいと考えるようになりました。アメリカで暮らしている頃から、1ヶ月に1度は仕事で日本に来ていました。2週間ぐらいの滞在が多かったのですが、東京単身赴任を命じられ、4年間東京に住んだこともありました。滞在中の週末には新幹線で日本各地を回り、「将来日本に戻ったらどこに住もうかな」と考えながら旅をしました。そして自分への退職記念のプレゼントとして3年前小豆島に家を買い、誕生日に小豆島へ引っ越して来ました。

最終的になぜ移住先を小豆島にしようと思ったのですか?

一番はオリーブに惹かれたことです。イスラエルやスペインなどに訪れた時にオリーブの木を見て、聖書の時代が頭に浮かび、「いいなぁ」と思いました。ちょうどその頃、同僚がイスラエルでオリーブ栽培をしていて、イスラエルに出張すると、いつも自家製の美味しいオリーブの漬物を食べさせてくれました。そんなこともあって、いつか自分もオリーブを有機栽培して、自分で育てたものを食べられるような農家になりたいと思うようになりました。地元に帰ることも考えましたが、山梨では気候的にオリーブの栽培はできないだろうなと思い、オリーブ栽培ができそうな土地をリサーチし始めました。

そして、たまたま日本に出張に来た時に知り合った方が小豆島出身で、小豆島ではオリーブが栽培されていることを聞きました。さっそく小豆島のオリーブ園を見たくなり小豆島を訪問したのです。その時に泊まったホテルからの景色が素晴らしく、すぐに住みたくなりました。小豆島は土地の値段がお手頃で、「ここなら私でもオリーブ栽培が出来るかも!」と思い始めました。

アメリカに帰るとすぐに、「山梨に帰るよりも、瀬戸内海に行きたい」と夫に伝えました。夫はすでに定年退職をしていたので、私の定年退職後には一緒に小豆島に住もうと計画を立て始めましたが、いざ私が定年退職の時期を迎えると、夫は今まで住んでいた自宅を売って、ゴルフコースやレストラン、ボーリング場などが併設されている高齢者向けリゾートに移りたいと言い出したのです。日本へは一週間くらいの滞在ならいいけど、ずっと住む気はないようだったので、結局私1人で小豆島に来ました。認知症にかかって娘たちが迎えに来てくれるまではここに住むつもりです。いつも3ヶ月に1度くらいは、仕事を兼ねてアメリカに帰り、1〜2週間滞在しています。夫も3ヶ月に1度くらいは小豆島に来て1週間くらい滞在していきます。夫は私とちがい都会育ちなのでオリーブを育てるようなタイプではないのですが、小豆島は気に入ってくれているようです。

娘達からは「ママが行きたいなら行ったらいいでしょう!ぼけたら迎えに行くから!」と言われ、いつかはアメリカに帰ることを約束してここに来ました。でもここに住み始めると「すぐ近くに老人介護施設があるし、医療もアメリカよりずっと安いし、帰る必要はないなぁ」と今では思い始めています(笑)。「年を取ると子供に戻り、昔のことは脳が覚えているけれど、現在のことは忘れる」とよく言われますので、アメリカに帰った時にはすでに英語を忘れてしまっているかもしれないと考えたのか、娘たちは今一生懸命、日本語を勉強してくれているようです。

どのように家を見つけましたか?

以前からいつか日本に住みたいと思っていたので、インターネットで日本各地の不動産情報をよくチェックしていました。ある日、1枚の写真に惹き込まれてしまったのです。そこにはテラスから瀬戸内海を一望した素晴らしい眺めが写っていました。「えっ!」と驚き、すぐに不動産屋さんにメールを送りました。それから、実際にその家を見に行って、即住むことを決めました。今では毎朝このテラスから行き交う船を眺め、コーヒーを飲みながら小豆島に移住して良かったなと思っています。

 ▶︎テラスからの眺めがお気に入り

引っ越してからは毎日どう過ごしていますか?

今も在宅でサイバーセキュリティーの営業顧問をしています。アメリカで生み出されたサイバーセキュリティーの技術を、他国に伝える時に私が間に立って伝えています。日本では、今もまだセキュリティーの必要性を理解していない方たちが多いので、現在、啓蒙活動中です。本当は日本に来る前に仕事を退職して来たのですが、アメリカの会社や他国でビジネスを始めた元同僚に頼まれて断れず、今もアドバイザーとして仕事もしているという状況です。今は車の自動運転に特化したセキュリティーにも取り組んでいます。というわけで小豆島に住んでからも日本国内の出張が多く、1ヶ月に2回程度は大阪、名古屋、福山、東京、米原などに行っています。

栽培したオリーブは販売するつもりですか?

近所の方からいろいろいただくばかりで、私には何もお返しする物がないので、自分で育てたオリーブから採油したオリーブオイルをお礼にお返しすることが私の夢です。暮らしてみて分かったことなのですが、地元の方たちはオリーブオイルが体に良いことが分かっていても、高価で質の良い小豆島産のオリーブオイルを気軽に入手出来ないでいます。だから、私が育て採油したオリーブオイルを地元の方々に食べてほしいと願っています。再来年ぐらいには、この夢も叶うかもしれません。

▶︎手作りのオリーブのオイル漬け

畑の土地はどのように見つけましたか?

自宅の改築をお願いした大工さんに畑を探していることを伝えると、土地を貸してくださる方を紹介してくれました。畑に通うようになってからは、畑の近所の方々とも友達になり、いろいろな野菜や柑橘類などをたくさんいただいています。近所の方々は本当に親切な方ばかりですばらしいです。時には食べきれないくらい野菜をいただくこともあるので、東京の友達に送ってあげたりしています。最初は自分で野菜を育てようと思っていたのですが、周りのお友達からたくさん分けていただくので、もう自分では育てないことにしました。

小豆島で人との繋がりはどうやって作っていきましたか?

私はとてもお喋りなので、暮らしているなかで出会った方々と話をしているうちにお友達になっていきました。みかんや野菜をいただくと、「じゃ、お茶飲んで行って下さい」とお礼に自宅に迎えるなどするようになりました。1時間も2時間も話し込んだりすることもあります。私は積極的に交流を図っていく方ではないのですが、幸運にも向こうから近寄って来ていただくととても嬉しいのです。徐々に自分からも地元の方たちの中に入って行けるようになり、ときにはお料理やグラウンドゴルフを教えていただくこともあります。

車を持たない生活は不便ではないですか?

不自由なことは全然ありません。ここには駐車場がなく、車を持っていれば海辺に駐めるしかないので、私が出張した時などにもし台風が来たら車に潮がかかってしまい心配です。東京に住んでいた私にとっては、バスやタクシーで十分なので全然不便とは思いません。どこかへ行きたい時はバスの時間に合わせて行動すれば良いのですから。

こちらに来て困ったことはありましたか?

あまりこれと言ってはないのですが、香川県は車の運転が一番ひどいなとは感じました。左の車線じゃなくて、右の車線を走っていたりとか、それにお年寄りの運転が怖いです。こちらが道を渡ろうとしても止まらなかったり、また若者の運転も非常に荒くて怖いです。

小豆島に住んでみてどうですか?

とても過ごしやすいです。気候も山梨より暖かくて好きです。カリフォルニアに長く住んでいたせいか寒いのが苦手なんです。それに、私は釣りが好きなので、本当にここに来てよかったと思いました。子供達が遊びに来た時には釣りに連れて行ってあげることも出きるし、楽しく暮らしています。無理もしていません。「こんにちは」と挨拶をしていれば、向こうから友達も寄ってきてくれます。

アメリカの生活から小豆島の生活に変わって、心境の変化はありますか?

まったくないです。アメリカに住んでいた頃は毎月2週間ぐらい日本に出張に来ていたので、それがなくなったおかげで私の体調もよくなったように感じます。

また、東京や横浜に単身赴任で住んでいた時には近所に誰が住んでいるのか分からず、少し怖いと思った経験もありましたが、今住んでいる所はみな知り合いでそのような怖さはありません。

好きな場所はありますか?

サン・オリーブ温泉です。常連の方々と友達になり、秀ちゃんと呼ばれています。いつもここへ行くとおしゃべりに花が咲きます。それがとても楽しみです。

(2020年1月5日インタビュー)

プロフィール
宮原秀子(みやばら ひでこ)
山梨県甲州市生まれ、2017年5月に小豆島に移住。
アメリカのカリフォルニア州との二拠点生活。
夫と娘2人はアメリカ在住。
テレワークでサイバーセキュリティーの営業顧問をしている。

インタビュー取材・文担当。1987年大阪生まれ。2013年から香川県小豆島在住。小豆島観光協会の広報などを経て現在はフリーランスでライターとして活動している。

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